牡蠣クリームパスタ

久々に一人で映画館に行き、ミッドサマーを観た。今まで家族になんとなく忖度して映画に一人で行くことは控えていたのだが、えいやと行ってみた次第。一人分のポップコーンと一人分のダイエットコーラ。バターの染みこんだポップコーンをコーラで流し込んだら、そうそうこれだよ、最高だなってなった。

 

それで映画の方は、端的に言うとそんなに怖くなかった。

吐き気も感じず、途中で出たいとも思わず、まあこんなもんかとそこそこに楽しんだ。

前日に『へレディタリー』も観た。足元で猫が寝ていたせいか、やはりこれも怖くなかった。

帰ってから自分にとってなにが怖いのかと考えた。布団の間から見知らぬ顔が覗いているとか、暗闇からゆっくり歩いてくるこの世ならざるものとか、自分にとっての恐怖の対象は非常に幼稚だ。これまで観た中で一番怖かったのは『リング』。あれを観た時は小学生だったと思うのだが、全身が反応した記憶がある。とはいえ、「怖い」の方向性が『ミッドサマー』とは違っているのはよくわかっている。

この映画については、なんかするっと終わってしまったのに妙に語りたい感じもあり、しかし語る仲間が周りにいないので、以下、メモ書き程度に自分の感想を書く。映画の感想というのはちょっと気恥ずかしいので、後で消すかもしれない。誰も読んでいない気もするが。

 

1.

基本的には北欧風きらきらモンド映画だと思う。「これはこの村の奇習です」と言われると、そうかそうかエグいけどそんなもんなんだなと納得してしまう。

しかしこうした映画はいわゆる「文化の盗用」とかにならないの?と思ったりする。海外発で「日本暗黒奇祭大全」みたいな映画を作られたら、このご時世だと苦情が来そう。それで英語記事をちょっと調べたら、たしかに「ちょっとねえ」みたいなものはあった。

OPINION: Midsommar movie makes Sweden look like a horror show for American viewers

https://www.thelocal.se/20190723/midsommar-review-american-filmmakers-turn-sweden-into-a-scandal

とはいえ植民地的な背景はないから、特に問題にはならないのかな。しかもこれはスウェーデンの人からの持ち込み企画らしい。なるほど…?

あとモンド映画っぽいものというか、当地のヤバい文化に逃げ場を奪われる話っていうのは結構古典的ではあるよね。『変態村』とか、『ドッグヴィル』とか。

小さい頃、レンタルビデオ屋の出入り口付近に残酷描写の多いビデオがあれこれ置いてあり、そのパッケージを恐々覗いたのを思い出した。

 

2.

基本的に「こう言うことを言いたいんですよ」というものが分かりやすく配置されていた。個人的に一番印象に残ったのは、コミュニケーションの破綻と(現代の社会的通念からすればいささかバッドエンド的な)回復の構図。

・例えば冒頭に映る読まれることのないメールの文字、聞かれることのない留守番電話、そして彼氏からの「響かない」言葉と、ヒロインは最初から理性・言語のコミュニケーションに疲弊してしまっている。「話し合いたいだけ」と「怒る」場面も象徴的。対話はその時点で試みようとしたからこそ失敗している。

・対してダンスの場面では、「踊り」や「ダンスの高揚感」といった身体的・感情的な状態から、言語コミュニケーションが成立する(なぜかスウェーデン語が話せるようになる)。自分も踊ればペラペラになるんだろうか。

・理性的・言語的コミュニケーションとは「ロゴス」を重んじる西欧思想世界の伝統そのものだし、アンガーコントロールのような感情の抑制も西欧においては美徳として扱われてきた。彼女の最初の苦しそうなクリスチャンとの喧嘩(のようなもの)は、そういった社会のあり方と自分の感情に板挟みになった状態なんだろう。

・とはいえ、感情の共有による共同体はある種の全体主義にも繋がりうるものであり、各人はその共同体を担う部品として機能する(生贄とか、自殺とか、生殖とか)

・しかし大きな悲しみの中で、理性的コミュニケーションがすでに無理になってしまっているヒロインにとっては、この共同体への所属によって、癒やしと過去との決別が発生してしまっており、もはやこの「部品になること」はそこまで悪いことではなくなっている

→ただし、単純にそれを享受する立場に完全に転じたのかもよくわからない。とりあえず元カレは捨てたわけだけど、最後の笑みをある種の「してやったり」と見るか、あるいは「解放感」や「共同体に所属することの喜び」として見るか、微妙に迷う。

・大きな悲しみの癒やしがたさも感じた。人は言葉で他人の悲しみを癒やすことはできないのではないか。しんどいな。

・・・そこらへんで、孤立から帰属(包摂)へ、言語から感情へ、という極を移動する話のように見えた

・ただその分物語がだいぶストレートに見えてしまった。例えば『へレディタリー』も、作中に登場するギリシャ悲劇に関するいかにもな講義の内容がそのままストーリーの終局まで連れて行く感じだったし、両者ともに、「それは予想外だった」「なんで?どうして?」といった衝撃は来なかった。

 

3.

宗教について。

・自分も宗教儀式には参加することがあるので、初めて参加する儀式への戸惑いというか、儀式をしているうちに自分が消えるような感覚や、どう振る舞えばいいのかわからない気まずさというのはよくわかる。あと特に困るのは感情の置き場所。そういう時に、もし自分が参加しているのが感情の共有を積極的に勧める儀式であったとしたら、それにある種の心地よさを感じてしまういう面もあるかもなと思った。

・観た後に、なにかのレビューで村の来訪者側の名前が大体キリスト教的であるという記述を目にして、なるほどと思った。クリスチャン、マーク、ジョシュ、サイモン、たしかにみんなそのものや聖書由来の名前だ。しかし女性の名前はどうなのだろう。コニーはコーネリア?ダニはダニエル?ダニエルはダニエル記があるが、あえて聖書由来ならもう少しわかりやすいところからとるように思う。また「ペレ」だってペトロから来ているのだから、キリスト教関係の人名ばっかり殺されるわけではないんじゃないかなあ。個人的には、欧米の映画を扱う日本人の映画批評にありがちな、登場人物の名前が聖書のどれどれで、というのにはあまり強い意味を見いだせないのだ。

・とはいえ、理性的(=ロゴス的)コミュニケーションがだめ、というのは、ロゴス・キリストというギリシア哲学ベースで営まれてきた西欧的キリスト教の敗北という感じもある。まあでも、別にロゴス的なものだけがキリスト教ではないから、そこまで単純化はできないだろうが。

・神が不在であるという意見も目にしたが、儀式というのは往々にして、手順だの、細かいあれこれだの、来訪者からの目線のだのを意識すると、むしろ「神が不在」であるかのように感じられることもある。自分も確かにホルガの宗教的営みに「神」や「超越」を感じない印象は受けたが、「宗教的営み」は必ずしも「神の実在感」と結びついているわけではないと思う。この点については、そういった儀式に対する捉え方というか、解像度のブレみたいな印象を受けた。

 

4.

顔と男性。

『へレディタリー』に続き、男性がひどい目にあいがちだなと思った。

・自殺を成功させる女性と自殺しきれず顔を潰される男性、ヒロインと共に村に行く三人の男性。立ちションは怒られるし、論文のための調査活動は否定されるし、特にクリスチャンは生殖の快感や、そういった行為にありがちな男の主導性も奪われる。最初に「別の女の子を捕まえちゃいなよ」とかマークに唆されている場面の皮肉な帰結って感じ。男性が自分からやったことは大体作中で咎められて悪い結果になる。男の来訪者たちは主体的に動いた結果排除され、ヒロインは主体的に主体性をなくす。まあコニーさんについてはちょっと違うかもしれないけど、去り際すら描かれなかったサイモンに比べればやっぱり彼女も主体的に描かれているかも?

・あと『へレディタリー』との共通点だと「顔」が毀損されがちだなとも思った。顔が毀損されるのは、たしかに腹にドスが刺さったりするより怖い。なんで怖いんだろう。コミュニケーションの最前線だからだろうか。

 

とにかく以上のようなことを鑑賞後に考えながら、帰り道によく行くレストランに寄った。そこで好物の牡蠣クリームパスタを食べていたら、不意に老人の潰れた顔を思い出してちょっとまずく感じた。牡蠣ってたまに人の髪の毛みたいな味がする。あと『へレディタリー』の影響で、暗いところが微妙に怖い。

特に怖くはないなと思っていたけど、こうして語りたくなることと、そして好物をまずく感じることで、自分にとっては結構印象深い映画だったんだろう。