ナポ窯のピザ

 漫然とオンライン授業をこなし、ゲームして、寝て、論文を書いていたらあっという間に12月になってしまった。最後に記事を書いたのはいつのことだろうか。覚えてない。そう思ってブログを読み返したら、4月で止まっていた。なんてこったい。

 さて、5月から今までの流れを振り返ってみると、ひとまず記事を書いていた頃に始めたランニングは案外順調に進んでいて、週6日はこなしている。ほぼ習慣になってきたが、最近ちょっとダルい。

 以下、忘備録代わりの一年間メモ。

  • 5,6,7月は諸々のオンライン授業でへとへとになっていた。体は疲れないが、メンタルがどんどん削れる。外の空気が足りない。授業を配信するリビングに西日がさしてきて暑い。そんな感じ。とにかく猫に癒やされはしていた。
  • 夏はなにをやっていたのか記憶に曖昧だが、論文を書いたり友人と山に行ったりしていたような気がする。
  • 9月も同じく論文を書いていた。とはいえ、自分の能力の低さや自信のなさもあり、作業時間のわりには量も少なくも質も低い。
  • 10月、授業が始まった。ZOOMのオンラインはもはや対面と変わらないノリでこなせてはいる。出勤のための往復がないので楽なくらいだ。しかし対面とオンラインが入り交じる会議日は面倒くさい。来年度の学生にそんな目にあわせないようにできたらいいが…。
  • 11月、ゼルダ無双が発売された。パートナーと協力プレイができるので、長く楽しめるようちびちびやっている。楽しい。この月は結婚記念日なんかもあって、ひっそりディナーにでかけたりもした。あと一回だけ射場に行った。
  • それで12月。ぼちぼち授業も終わりが見えてきた。これを越えれば年明けは各講義2回位で終わる。年末の予定は特にない。毎年この時期は、毎週末なんらかの集まりがあったように思うのだが。まあしょうがない。

 まあぼちぼち生産性の低い毎日を過ごしている。ランニングのおかげで体重は増えない。それはちょっと嬉しい。

 

ケンタッキーのチキン

 一昨日、昨日とランニングをした。今日は少々遠出をするし、若干膝が痛いのでやめておこう。やめておく代わりにまともなランニングシューズをナイキに注文した。Amazonを使って安く買おうかと思ったが、Amazonに頼り切りの生活に嫌気がさしてきたのだ。昨日も一昨日も本代だけで5万くらい使っている。どこもかしこも図書館が閉まっているからしょうがない。

 

 それで、昨日はランニングをして、その後数時間研究に関する作業をし、後はずっとプラモデルを組んでいた。

 作ったきりのマゼラアタックと高機動型ザクオルテガ機)につや消しスプレーをして、あとはガイア機の組み立て。オルテガ機のランドセルの下のパーツがとれてしまったので、明日にでも瞬間接着剤を調達したい。

 夕食は家人が買ってきてくれたケンタッキー。久々に食べると美味しいが、カロリーが心配だ。

ショートブレッド

  ランニングをしてきた。結婚式の準備以来、数年ぶりである。以前買ったウェアを着て、ヒモ靴ではないがスポーツ向けの靴を履いて走った。きっかけはいいかげん腹の肉が嫌になったからだ。以前のランニングのときのプレッシャーは数百万の挙式費用だったが、今回は単なる自尊心の問題である。体は重いし乗り気でもなかったのだが、実際走るととても気持ちがよくて、そうしているうちになにか今の状況を外に出していかなければと思った。

 もちろん、人は避けた。次はバフを使おう。キシリア様みたいなのはあるんだろうか。

 

 さて、最近は家に籠もりきりだ。家に籠もっているならさぞ研究も進むだろうと自分でも思うが、驚くほど進んでいない。頭の中はもっぱらオンライン授業のことで、気がつくとその情報をインターネットで探している。おかげでスマホの画面をみる頻度が病的になったなと思う。画面をみると目が痛い。それなのにやめられない。10月までに仕上げなければいけない原稿もあるのだが、大まかな方針を決めただけで、恐ろしいほど進捗がない。今からすでに胃が痛い。

 

 さしあたり空白期間の日記にかえて、2月から今に至るまでの新型コロナに関する肌感を回顧しておこうと思う。なにぶんバタバタと日が過ぎたので、もしかしたらずれもあるかもしれないが。

 

2月

 この時点ではかなりの他人事だった。2月前半には教授会もあったし、小さな会議も行われていた。月頭には草津に行ったりもした。22日の友人の結婚式では、酒を飲みながらダイヤモンド・プリンセスの話をしたりもしていた。この時期のスケジュール帳をみるとぎっしりだ。

 また2月中頃にはちょっとした研究会も主催した。この頃にはぼちぼち「研究会などは行わないほうがよいのではないか」という話を聞いていたが、「自粛」をするのは3月の大きな会で、小規模な会はいろいろと開催されていた。

 とはいえ、大学組織はそれよりも動きが早く、3月予定のオープンキャンパスや会議の日程はことごとくキャンセルされていった。

 

3月

 3月はじめには先輩と食事にいき、また7日に『ミッドサマー』を見に行ったくらいなので、その時も話題には出しつつも、まだいろいろと余裕はあったと思う。学会誌に載せる原稿も仕上がり、編集幹事のような仕事をやっていた論文集も印刷にまわったので、むしろ解放感もあった。20日は自分の誕生日でもあり、近場の小さなレストランに連れて行ってもらった。また、学内で学生向けに出す参考書のようなもののレイアウトに七転八倒していて、とにかく3月後半はこれにかかりきりであった。登山用のリュックで数百冊の小冊子を運んだのはいい思い出だ。

 あとネット上の「蘇」が流行っているというニュースを聞きながら、ショートブレッドやクッキーをひたすら焼いていた。『鬼滅の刃』だの『ガンダムSEED』だのを見ながら延々とバターを練り、生地をこね、冷凍庫で冷やしてカットして焼くだけ。なるだけ甘さ控えめで硬いのを作りたかったので、小麦粉の量を極端に増やしたり、全粒粉だけで焼いたりと試行錯誤を繰り返していた。思えばこれでずいぶん太った。

 のんきな状況と並行しつつ、次第に社会情勢は他人事ではなくなっていった。

 大きな契機は25日の小池都知事による自粛要請だったと思う。

 この日は友人の子どもの洗礼式だった。非常に綱渡りの日程だったが、友人一家がどうしても海外に行かねばならないことになり、このご時世だからこそ、出発前に子どもにも洗礼を受けさせたいということになったのだ。すでに韓国の事例や、あるいはローマ教皇の聖職者への呼びかけと、イタリアでの聖職者たちの「殉職」のニュース、また欧州での葬式の実施状況などの情報によって、そういった宗教的集いはかなりのハイリスクであることは承知していた。しかし次にいつ会えるのかもわからない状態だったので、司祭と代親をつとめる自分が体調をチェックした上で先方の家に行く、という形でひっそりと少人数で行うこととなった。今の時点でなにも不穏なことは聞かず、また先方も無事に到着したとのことなので、おそらく問題はなかったのだろう。

 それで、この会の後に小池都知事の会見を聞いた。3月末に行われる予定だったすこし大きめの研究会の状況が気になっており、それが開催されるか否かが社会に対する自分の中の肌感の分かれ目であったと思う。最後の最後までいろいろな形で開催しようという雰囲気ではあったのだが、この会見を機に中止が確定された。

 

 あと流れが少し違うが、29日の雪の時には買出しのときにカメラを携行してしまった。雪の重みに耐える桜は、なんだかしんどい美しさがあった。dp2の雪の粒まで飛び出してくるような解像感に改めて惚れ直してし、二回払いでdp0quattroも購入してしまった。これでどこになにを撮りに行くの?という話だが、どちらかというと遠出への憧憬があったのかもしれない。お高い自分への誕生日プレゼントだと思うことにしよう。

 

4月

 先に書いたとおり、オンライン授業をどうするかできりきり舞いである。ゼミはすでにZOOMで行った。非常にやりづらく、これで90分の間を埋めるのは大変だ。家からの聴講だと顔を写すのもしんどかろうとカメラはオフにしてもらっているが、そうすると自分が何に向かって話しているのかわからなくなる。50名を超える大人数の講義に関しては、「パワーポイントに声を吹き込んで、15分ほどのものを2本くらい作る」という形とすこし重めのワークのあわせ技にしようかと考えているが、そもそも複数のファイルを再生するのは学生には面倒だろう。また、アメリカではワークが学生の生活を圧迫してしまい、学生がアップアップしているという話も聞く。放送大学の修了率を考えると、自発的に動画を見て課題をコンスタントに提出し続けるのは大変なことなのだと思う。教室ならば、どんなに不真面目でも目の前の紙になにか書く気力は湧く。しかし家となるとそうはいかない。それならいっそZOOMでリアルタイムにやるのが一番ではないかという気もする。(ちなみにヘッドセット品切れのニュースを聞くが、スマホで会話をするようなBluetoothのヘッドセットは普通に手に入るし、それで十分である)

 それにしても、なにより確保すべきなのは学生の学びの質と、学生自身の満足感なのは当然だろう。すでにいくつかの大学では「学費を減らせ」という運動もあるらしい。自分も現役生だったらそうするかもしれない。大学図書館もつかえず、授業も開講されないのだ。しょうがないことだ。ただ大学側の目線からすれば、学費は体を維持する栄養のようなものである。対外的な動きがないからと栄養を絶てば、体自体が死んでしまう。設備費は利用料金というよりも維持費である。授業が行われていない裏で、駆けずり回る教職員が山ほどいる。色々と難しい。

 まあこんな感じで、書き出すと心配は尽きない。せっかく手に入れたギャン・クリーガーのプラモデルも触れていないし、婚家の居酒屋も軒並み休業だ。4月の頭から、休業の張り紙を何度か作った。家にこもって鬱々と情報収集をしていると一日が終わってしまう。それじゃあよくない、ということで、ランニングを始めたのだ。

 

 ここ一週間は娯楽代わりに夜につらつらVガンダムを観ているが、あまり良くないんじゃないかという気もしてきた。母性のディストピア。男が考える女が支配する世界。そこそこ歳をとってからまじまじ観るといろいろとしんどい。

 閉塞感がすごい。

牡蠣クリームパスタ

久々に一人で映画館に行き、ミッドサマーを観た。今まで家族になんとなく忖度して映画に一人で行くことは控えていたのだが、えいやと行ってみた次第。一人分のポップコーンと一人分のダイエットコーラ。バターの染みこんだポップコーンをコーラで流し込んだら、そうそうこれだよ、最高だなってなった。

 

それで映画の方は、端的に言うとそんなに怖くなかった。

吐き気も感じず、途中で出たいとも思わず、まあこんなもんかとそこそこに楽しんだ。

前日に『へレディタリー』も観た。足元で猫が寝ていたせいか、やはりこれも怖くなかった。

帰ってから自分にとってなにが怖いのかと考えた。布団の間から見知らぬ顔が覗いているとか、暗闇からゆっくり歩いてくるこの世ならざるものとか、自分にとっての恐怖の対象は非常に幼稚だ。これまで観た中で一番怖かったのは『リング』。あれを観た時は小学生だったと思うのだが、全身が反応した記憶がある。とはいえ、「怖い」の方向性が『ミッドサマー』とは違っているのはよくわかっている。

この映画については、なんかするっと終わってしまったのに妙に語りたい感じもあり、しかし語る仲間が周りにいないので、以下、メモ書き程度に自分の感想を書く。映画の感想というのはちょっと気恥ずかしいので、後で消すかもしれない。誰も読んでいない気もするが。

 

1.

基本的には北欧風きらきらモンド映画だと思う。「これはこの村の奇習です」と言われると、そうかそうかエグいけどそんなもんなんだなと納得してしまう。

しかしこうした映画はいわゆる「文化の盗用」とかにならないの?と思ったりする。海外発で「日本暗黒奇祭大全」みたいな映画を作られたら、このご時世だと苦情が来そう。それで英語記事をちょっと調べたら、たしかに「ちょっとねえ」みたいなものはあった。

OPINION: Midsommar movie makes Sweden look like a horror show for American viewers

https://www.thelocal.se/20190723/midsommar-review-american-filmmakers-turn-sweden-into-a-scandal

とはいえ植民地的な背景はないから、特に問題にはならないのかな。しかもこれはスウェーデンの人からの持ち込み企画らしい。なるほど…?

あとモンド映画っぽいものというか、当地のヤバい文化に逃げ場を奪われる話っていうのは結構古典的ではあるよね。『変態村』とか、『ドッグヴィル』とか。

小さい頃、レンタルビデオ屋の出入り口付近に残酷描写の多いビデオがあれこれ置いてあり、そのパッケージを恐々覗いたのを思い出した。

 

2.

基本的に「こう言うことを言いたいんですよ」というものが分かりやすく配置されていた。個人的に一番印象に残ったのは、コミュニケーションの破綻と(現代の社会的通念からすればいささかバッドエンド的な)回復の構図。

・例えば冒頭に映る読まれることのないメールの文字、聞かれることのない留守番電話、そして彼氏からの「響かない」言葉と、ヒロインは最初から理性・言語のコミュニケーションに疲弊してしまっている。「話し合いたいだけ」と「怒る」場面も象徴的。対話はその時点で試みようとしたからこそ失敗している。

・対してダンスの場面では、「踊り」や「ダンスの高揚感」といった身体的・感情的な状態から、言語コミュニケーションが成立する(なぜかスウェーデン語が話せるようになる)。自分も踊ればペラペラになるんだろうか。

・理性的・言語的コミュニケーションとは「ロゴス」を重んじる西欧思想世界の伝統そのものだし、アンガーコントロールのような感情の抑制も西欧においては美徳として扱われてきた。彼女の最初の苦しそうなクリスチャンとの喧嘩(のようなもの)は、そういった社会のあり方と自分の感情に板挟みになった状態なんだろう。

・とはいえ、感情の共有による共同体はある種の全体主義にも繋がりうるものであり、各人はその共同体を担う部品として機能する(生贄とか、自殺とか、生殖とか)

・しかし大きな悲しみの中で、理性的コミュニケーションがすでに無理になってしまっているヒロインにとっては、この共同体への所属によって、癒やしと過去との決別が発生してしまっており、もはやこの「部品になること」はそこまで悪いことではなくなっている

→ただし、単純にそれを享受する立場に完全に転じたのかもよくわからない。とりあえず元カレは捨てたわけだけど、最後の笑みをある種の「してやったり」と見るか、あるいは「解放感」や「共同体に所属することの喜び」として見るか、微妙に迷う。

・大きな悲しみの癒やしがたさも感じた。人は言葉で他人の悲しみを癒やすことはできないのではないか。しんどいな。

・・・そこらへんで、孤立から帰属(包摂)へ、言語から感情へ、という極を移動する話のように見えた

・ただその分物語がだいぶストレートに見えてしまった。例えば『へレディタリー』も、作中に登場するギリシャ悲劇に関するいかにもな講義の内容がそのままストーリーの終局まで連れて行く感じだったし、両者ともに、「それは予想外だった」「なんで?どうして?」といった衝撃は来なかった。

 

3.

宗教について。

・自分も宗教儀式には参加することがあるので、初めて参加する儀式への戸惑いというか、儀式をしているうちに自分が消えるような感覚や、どう振る舞えばいいのかわからない気まずさというのはよくわかる。あと特に困るのは感情の置き場所。そういう時に、もし自分が参加しているのが感情の共有を積極的に勧める儀式であったとしたら、それにある種の心地よさを感じてしまういう面もあるかもなと思った。

・観た後に、なにかのレビューで村の来訪者側の名前が大体キリスト教的であるという記述を目にして、なるほどと思った。クリスチャン、マーク、ジョシュ、サイモン、たしかにみんなそのものや聖書由来の名前だ。しかし女性の名前はどうなのだろう。コニーはコーネリア?ダニはダニエル?ダニエルはダニエル記があるが、あえて聖書由来ならもう少しわかりやすいところからとるように思う。また「ペレ」だってペトロから来ているのだから、キリスト教関係の人名ばっかり殺されるわけではないんじゃないかなあ。個人的には、欧米の映画を扱う日本人の映画批評にありがちな、登場人物の名前が聖書のどれどれで、というのにはあまり強い意味を見いだせないのだ。

・とはいえ、理性的(=ロゴス的)コミュニケーションがだめ、というのは、ロゴス・キリストというギリシア哲学ベースで営まれてきた西欧的キリスト教の敗北という感じもある。まあでも、別にロゴス的なものだけがキリスト教ではないから、そこまで単純化はできないだろうが。

・神が不在であるという意見も目にしたが、儀式というのは往々にして、手順だの、細かいあれこれだの、来訪者からの目線のだのを意識すると、むしろ「神が不在」であるかのように感じられることもある。自分も確かにホルガの宗教的営みに「神」や「超越」を感じない印象は受けたが、「宗教的営み」は必ずしも「神の実在感」と結びついているわけではないと思う。この点については、そういった儀式に対する捉え方というか、解像度のブレみたいな印象を受けた。

 

4.

顔と男性。

『へレディタリー』に続き、男性がひどい目にあいがちだなと思った。

・自殺を成功させる女性と自殺しきれず顔を潰される男性、ヒロインと共に村に行く三人の男性。立ちションは怒られるし、論文のための調査活動は否定されるし、特にクリスチャンは生殖の快感や、そういった行為にありがちな男の主導性も奪われる。最初に「別の女の子を捕まえちゃいなよ」とかマークに唆されている場面の皮肉な帰結って感じ。男性が自分からやったことは大体作中で咎められて悪い結果になる。男の来訪者たちは主体的に動いた結果排除され、ヒロインは主体的に主体性をなくす。まあコニーさんについてはちょっと違うかもしれないけど、去り際すら描かれなかったサイモンに比べればやっぱり彼女も主体的に描かれているかも?

・あと『へレディタリー』との共通点だと「顔」が毀損されがちだなとも思った。顔が毀損されるのは、たしかに腹にドスが刺さったりするより怖い。なんで怖いんだろう。コミュニケーションの最前線だからだろうか。

 

とにかく以上のようなことを鑑賞後に考えながら、帰り道によく行くレストランに寄った。そこで好物の牡蠣クリームパスタを食べていたら、不意に老人の潰れた顔を思い出してちょっとまずく感じた。牡蠣ってたまに人の髪の毛みたいな味がする。あと『へレディタリー』の影響で、暗いところが微妙に怖い。

特に怖くはないなと思っていたけど、こうして語りたくなることと、そして好物をまずく感じることで、自分にとっては結構印象深い映画だったんだろう。

すき焼き

24日、家で少しだらだらしてからレッドロブスターでクリスマスディナー。そこそこ食べてしまった。

ディナーの後は一度家に帰り、それから最寄りの教会のミサへ。さすがに夜も遅いので、うどんは食べることなく帰宅。

 

25日、御徒町に真珠を見に行く。予算いっぱいだがよい黒蝶を見つけてそれに決めた。

その後新宿の寿司屋で忘年会。ちょっとだけポエティックマンションをやる。

 

26日と27日は吉祥寺で買い出しをしたりなんだり。

28日にはコミケ。そこそこ朝早く出たが、入場チケットを買い忘れて大行列。帰宅後は原稿を書く。

 

29日、友人とカラオケ大会。カラオケの前にファミレスでポエティックマンション。その後上野のパセラへ。

さすがに5時間半のカラオケはちょっとディープだった。歌は尽きないが体力はつきぎみ。

 

30日、原稿。ようやく送稿。買い出しなど。

 

31日、父に会いに行く。すき焼きを作って、SASUKEを観た。

夜は家に戻って年越し。とろろ蕎麦を食べた。

マカロン

金曜はエリウゲナの自主勉強会、土日はそれぞれ研究会でちょっと疲れ気味だった。あと火曜日には銀英伝の三章をようやく観に行った。アンスバッハの眼差しがいいね。相変わらず間や余韻が少ないけども。

 

それで日曜日、閉業間近の家具屋に売られているソファを衝動的に買ってしまった。職場の研究室になにかちょっと寛げる場所が欲しいと思っており、ポエングを買うか悩んでいた矢先だった。とはいえ根本的には賞与でうかれていたためであり、そのソファがAmazonで家具屋の割引価格よりも安い値段をつけられて、おまけにあまり良くない評価をもらっているのを見てやってしまったなと心底思った。

それで今日、ソファを引き取り、職場まで手で運んだ。折り畳みの小さなものとはいえ、さすがにかなり重かった。電車で運べると判断したのは失敗だったと後悔した。職場最寄駅からはタクシーを使ってさらに420円のロス。しかも職場は改装中で、階段を使うのを余儀なくされた。いろいろと心の中で毒づきつつも、家具屋の店長の丁寧な梱包を剥がすうちに、自分は情報じゃなくてモノを買ったのだというよくわからない誇らしさが心に湧いた。

最近、気になる本をAmazonで買うということにうんざりしている。いつのまにか買い物が、ただモノを獲得することから、情報を照らし合わせて納得できるモノをクリックすることに変わってしまった。自分が何を得ているのかわからない。送られてきた本を読むことは喜びだが、以前は素朴に感じていた本を得ることの喜びはもうない。衝動買いはそういう、ちょっと原始的なモノを獲得する喜びを教えてくれる気がする。とはいえ衝動買い自体はよくない。慎重にいこう。

 

ちなみに大学の食堂に手製のマカロンが売られていた。中はベリー系のチョコレートでなかなか美味しかった。

シュクメルリ

金曜日は自宅仕事の日なので、基本的に金土日と融通が効く。

ということで、木曜日に職場の同世代飲み会(実のところ自分はかなり年齢は離れているのだが)に混ぜていただき、翌金曜日は院まで指導いただいた先生を家にお招きしてすき焼きパーティーをした。隠岐から隠岐牛を取り寄せたのだが、脂がしっかり乗っていてすごくおいしかった。酒もまあまあ良いものを用意できたのでなにより。先生の酒量が減ったのが気にはなるが、お年ということなんだろう。

土曜日は立川のビルケンシュトックで注文していたブーツを引き取り、それを履いて実家へ。グランベリーパークに遊びにいった。前身のグランベリーモールと違い、狙いがわかりやすくなり店数もかなり増えていた。動線が悪いのは少々困り物だが、駅の商業ビルと同じく、あえてやることでお店に人を誘導しているのだろう。オープンも間もないためかなり混雑していたが、いつ頃まで続くだろうか。ひとまず駅前にあったカルディでワインを買って帰宅し、父とネットフリックスをダラダラ見る。

日曜、昼に松屋のシュクメルリを冷やかしにいった。なるほどニンニクが効いていて濃い。美味しいとは思うが、紅生姜をはさまないと食べ続けられなかった。その後は立教にカタリ派文献の読書会へ。儀式書を二時間ほど読み、その後解散。